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オールドグッチを理解するためには、まずグッチの歴史を把握することが重要です。
グッチの創業者であるグッチオ・グッチ(Guccio Gucci)は、1881年にイタリア・フィレンツェに生まれました。

彼は皮革製造業を営む家庭で育ち1897年にはロンドンのサヴォイ・ホテルで働き始めました。

サヴォイ・ホテルでの経験から、グッチオは上流階級や裕福な人々の優雅な振る舞いや洗練されたスタイル、そして素晴らしい持ち物に魅了されました。

この経験はグッチオにとって大きな刺激となり、1902年に故郷に戻り、フランツィ社という皮革鞄メーカーで働くことになりました。ここで彼はバッグづくりの技術を磨きました。

そして、1921年になってグッチオは自身の名前を冠したブランドを設立し、フィレンツェのヴィーニャ・ヌオーヴァ通りにグッチ1号店を開店しました。

 

GUCCIの偉大な功績とは?

グッチは設立当初から、イタリアの裕福な人々に向けてさまざまな革製品を販売していました。
バッグや小物だけでなく、乗馬用のサドルも作っていました。

乗馬用品はグッチのブランドのルーツであり、同社の初期の乗馬用品に触発されたデザインが多く見られます。
徐々にブランドは成長し、グッチはシルク製品や革靴などのアイテムをラインナップに加えていきました。

1935年、第一次世界大戦後に設立された国際連盟は、イタリア王国に対してエチオピアとの戦争を放棄させるための制裁を課しました。

この国際連盟によるイタリアへの禁輸措置は、同国のビジネスに打撃を与え、グッチもその影響を受けました。

しかし、グッチオは輸入できなくなった素材を地元の素材に置き換え、新しいクリエーションを生み出しました。
その中で生まれたデザインの一つが、鎖状につないだGGロゴとダイヤ柄のモチーフです。これは現在でもさまざまな製品で使用されています。

第二次世界大戦によって、イタリアだけでなく世界全体が混乱に陥りました。
この困難な状況に対して、グッチオは革新的なクリエーションで立ち向かいました。

グッチは入手困難な素材の代替品を使用し、ユニークな製品を生み出しました。

このように新しい素材を多く見つけ出したグッチは、日本の竹バッグの持ち手に最適な代替品を見つけました。
そして、特許を取得したバンブーハンドルをバッグの持ち手として使用した「バンブーバッグ」を1947年に発表しました。

また、グッチがアイコン的な素材としてピッグスキンをバッグに使用し始めたのもこの時期です。
これはグッチオの息子であるアルド・グッチによって導入された革新的な素材でした。

 

規模を大きくするGUCCI

1951年には、グッチは独自のイメージカラーである緑と赤のストライプを採用しました。
2年後、グッチはニューヨークのサヴォイプラザホテルに最初の店舗をオープンしました。
このホテルはかつてグッチオが働いていた場所でもあり、ブランドには特別な思い入れがありました。

しかし、この店舗のオープンからわずか15日後、グッチオはミラノで72歳で亡くなります。
事業は彼の息子たちに引き継がれました。
アメリカでの事業はアルドが、フィレンツェでの事業はヴァスコが、ミラノでの事業はロドルフォがそれぞれ担当しました。

1953年、グッチはローファーを発表しました。
ローファーに特徴的な金属パーツ「ホースビット」は、乗馬の際に馬の口元につなぐ鎖状のパーツからインスピレーションを得ています。


ローファーはホースビットをあしらった初期の製品であり、現在でもグッチを代表するアイテムであり、メトロポリタン美術館にも収蔵されているほど芸術性が高く評価されています。

1950年代は、グッチの黄金期となりました。グッチのアメリカ店は、映画スターを惹きつけました。

1960年代には、グッチの人気はますます高まり、多くの裕福な人々がグッチの顧客となりました。
特にジャクリーン・ケネディは、1961年にグッチのバッグを愛用したことで有名です。

彼女によってこのトートバッグは、瞬く間にグッチの「イットバッグ」となりました。後にこのバッグは彼女の名前にちなんで「ジャッキー」と呼ばれるようになりました。

モナコ公妃グレース・ケリーもグッチの常連客でした。彼女がグッチの店舗を訪れたことをきっかけに、ロドルフォは1966年に彼女に敬意を表して特別なフローラルスカーフを贈りました。

1960年代以降、グッチの製品を身に着けた有名な女性には、オードリー・ヘップバーン、ナンシー・レーガン、ダイアナ妃、ギリシャのフレデリカ女王、ヨルダンのラニア女王、カーラ・ブルーニ=サルコジ、ミシェル・オバマなどが含まれます。

このようにグッチの成功は止まることを知らず、世界中にグッチショップが展開される一方で、製品のラインナップも拡大し続けました。
そして1960年代半ばには、ウォッチ、ジュエリー、アイウェアなどのアイテムも追加されました。

1970年代と1980年代には、アルド・グッチはアジア市場に注力しました。
1972年には東京、1974年には香港に店舗を開設し、ニューヨークにはグッチのアパレルライン専門店も新たにオープンさせました。

また、1975年にはグッチ初の香水である「グッチNo.1」を発売し、収益性の高い美容市場への参入を果たしました。

1981年には、イタリア・フィレンツェのピッティ宮殿でサラ・ビアンカによる初のグッチのプレタポルテファッションショーが行われました。

このショーは、フローラ柄に触発されたものであり、大きな成功を収め、グッチの高級ブランドとしての地位を固めました。

 

ここから始まる一族の戦い

しかし、グッチは製品の評判が高まる一方で、グッチ・ファミリー内の対立から混乱に見舞われました。

この混乱は、1974年にヴァスコ・グッチの死をきっかけに始まり、その後アルドとロドルフォが事業を均等に分割しました。
しかし、アルドの息子たちは、ロドルフォがビジネスの成長に貢献していないと感じていました。

そこでアルドは、グッチの子会社として香水会社を立ち上げ、その株式の80パーセントを自分と息子たちの所有としました。しかし、一族の葛藤はここから一層激化していきました。

アルドの息子であり、グッチの副社長を務めていたパオロは反旗を翻し、独自のグッチのセカンドラインを立ち上げることを試みました。

怒り狂ったアルドは息子に対して訴訟を起こし、パオロと関わらないよう関係者に脅迫しました。

1980年、パオロはグッチメゾンから追放され、父親の税金逃れを告発しました。

その結果、アルドは1986年に700万ドル以上の脱税を認め、1年間の刑務所収監となりました。

この間、1983年にロドルフォが亡くなり、息子のマウリツィオがロドルフォの株を相続しました。
妻パトリツィアの策略に惑わされたマウリツィオは、グッチのビジネス全体を掌握する試みを始めました。

マウリツィオは1972年、父親の意思に反してミラノの富豪パトリツィア・レッジャーニと結婚しました。

マウリツィオは彼女に対して強い愛情を抱いていたと述べています。夫婦は贅沢なパーティーを開催し、2人の娘と高級な休暇を楽しむなど、贅沢な生活を送りました。

しかし、晩年になるとマウリツィオはパトリツィアから距離を置くようになり、2人は1990年に離婚しました。ビジネス面でもマウリツィオは行き詰まりを感じました。

 

人気のオールドグッチの魅力とは?

現在のグッチの製品は大量生産されているため、多くの人が所有していますが、オールドグッチは1985年以降作られていないため、市場に流通している数は年々減少しています。

オールドグッチとして知られるのは、シェリーラインです。

シェリーラインとは、緑と赤または青と緑のストライプのことを指します。

このデザインは現在のグッチでは販売されておらず、オールドグッチや復刻品でしか見ることができません。

このデザインはカジュアルな雰囲気と高級感を兼ね備えており、人気があります。

 

オールドグッチの価値が上がってきた?

シェリーラインは、1950年代に導入された緑と赤の配色が特徴で、一目でグッチの製品だとわかる人気のあるコレクションです。

オールドグッチの中でも特に人気があり、現在では廃盤となっています。代わりに、2018年に「オフィディア」という新しいラインが発売されました。

オフィディアは、シェリーラインの緑と赤の配色とGGパターンを組み合わせたデザインであり、現在のグッチの人気を牽引する存在となりました。

発売から数年経った今でも人気が高く、中古品でもあまり価値が下がりません。

 

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